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照井康文 Yasufumi Terui / Japan
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2011年06月10日
赤城耕一の「眼ざし」

 赤城耕一の初めて写真掲載されたというのは「カメラ毎日」1982年7月号の「アルバム」だということで、早速、その雑誌を入手して見る事にした。実は私も彼と同じカメラ毎日の「アルバム」で1984年にデビューしたのだが、やはり当時のカメラ雑誌はとても古く感じてしまう。ただ、掲載されている写真に関してはそれ程古く感じない気がする。実際、当時カメラ毎日は写真雑誌の中では優れて写真の最前線を行っていたように思う。

 赤城耕一の写真は「眼ざし」というタイトルで7ページ構成となっている。完全に赤城耕一の世界である。彼は写真大学の時代から自分というものを持った、抜きん出て優れた写真学生だった。大学に入った当初からそのスタイルは一貫していたし、今でもそれは変わらないのだろうと思う。当たり前ではあるが雑誌に載っている当時の彼の顔写真は笑えるほどに実に若い。あの頃からすでに30年が過ぎ、同期の友は皆、少なからず老けてしまった。赤城耕一は今でも写真家であり、私も写真作品を作り続けている。皆、変わりもし、変わらず、でもあるのだろうと思う。

※上写真はカメラ毎日・アルバム赤城耕一の「眼ざし」から


2011年05月13日
思い出

 お世話になった先生達や親戚の方など自分の知る人が亡くなっていく。思い出とは極めて個人的なものだと思うが、人と人とのつながりの中に出来た自分以外の人に対する思い出はその人に受け継がれていくのかと思う。しかし、有名人でもない極普通の我々は、いつの日か完全にこの世から忘れ去られるのであろう。例えば私のお祖父さんが、私自身の中にある記憶と思い出が最後となっていくのかもしれないように。

 懐かしさとか思い出だとかは人それぞれによって当然違ったものであろうと思うのだが、ある音楽を聴くと、とても懐かしく昔の少年時代や青年時代を蘇らしてくれることが度々ある。誰しも同じではなかろうか。ところで、絵とか写真だとか、他にも彫刻とか立体作品だとかいったもので、同様の経験を受けたことはあるだろうか。少なくとも私自身には無いかもしれない。音楽には姿かたちが無い為なのか。写真はあまりにも具体的(リアル)すぎるのだろうか。

 Webの世界を通して知らない人と実際に会わなくとも親しくなることが可能で、今では当たり前のこととなっている。さらに生身の姿を必要とせずに自分をwebの世界に置くことが出来、それは場合によって自分が死んでも誰かが手を加えない限りしばらくはそのまま置き去りにされていく可能性もある。


20011年05月07日
岡本太朗展

 ゴールデンウイークを使って東京国立近代美術館で開催された「岡本太朗展」を見に家族そろって行ってきた。ただそれだけの為に実に7年ぶりの東京行きとなったわけであるが、それなりに色々と楽しんで帰ってきた。展覧会は連休中と会期の終わりも近いということもあってか大盛況で、入場するのに30分も要し、会場内も人だらけであったが本当に見たいものは近くから充分に時間を使って鑑賞することが出来た。展覧会を見た直後には人の多さでそれ程の感動が得られない状況であったのが、日を重ねるにしたがって自分の実になる展覧会であったということが実感されてきた。

 所沢あたりで暮らしていた25年程を中心に多くの美術展を見てきたけれども、1985年軽井沢・高輪美術館での「イブ・クライン展」、1996年神奈川県立近代美術館での「山下菊二展」につぐ私にとっての大切な展覧会となったように思われる。
 立体作品については展示された実物に対して、図録の風景と共にある写真で見る方が素敵に思われたのであるが、思うに、会場内でのずらりと横に並べられた作品は裸にされた作品をみているように生々しかったのかもしれない。


2011年04月16日
変わらなければいけない

 変わらなければいけない。誰しもが感じていることであろうし、そして今がそうであるとも感じている。東北関東大震災が日本人全てに与えた影響はとてつもなく大きい。被災地、東京近郊に関わりなく、今、日本中の人たちが感じ始めているであろうし、日々その問いと意味は変化していく。何がどのように変わっていく必要があるのか。それは、それを感じ考えていく個人個人によって違ってくることであろうと思うし、何がどのように変われば良いのか分からず悩むのかもしれない。そして私の場合、写真制作に対する意識、考えが変わっていくことだろうと感じている。スイッチの入れ直しが必要なのかもしれない。自然災害は個人の築いてきた歴史をも飲み込んでいった。私も今までの自分の作業を一度、忘れる必要があるのかもしれない。


2011年03月16日
銀座・ギャラリー志門での作品展示会のご案内

 2011年3月11日、東北関東大震災が日本を襲いました。災害にあわれた皆様にお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方々、ご家族の方々に哀悼の意を捧げます。

 北海道苫小牧市でも大きな揺れを感じ、直後に津波警報、さらに大津波警報へと修正されました。我家は近くの高台へと避難をしたのですが、同じ町内のほとんど圧倒的多くの世帯は非難をしていなかったのです。幸い津波が町に乗り上げることなく済んだのですが、津波に襲われた東北と同様の事態が発生していたならば、と考えると空恐ろしく感じてしまいます。結果的に北海道よりも東京を中心とする関東一円で様々な支障が起きてしまいました。

 そのような事態の中、無事、苫小牧から出品が出来るのか、支障なく開催できるのかが心配でありますが、4月18日から23日にかけて写真と彫刻による作品展示会「SESSION IN SIMON」が東京銀座・ギャラリー志門にて開催されます。出品者は石川剛・井上治・植村正春・照井康文・工藤俊文・藤樫正・FRANK DITURI(Italia)・松本憲宜による8人です。それぞれ個性の強い作品がそろいますので、時間がありましたら是非、お立寄り下さい。


2011年03月06日
キャンバスの持つ世界

 大判プリンターでインクジェットキャンバスにプリントして作品を作っている。
 キャンバスの発色性は確かに良くない。それなりにシャープで忠実な色再現をしてくれるが、紙には全くかなわない。

 紙にしてもキャンバスにしてもそのマチェールを越える表現が立ち現れようとしている。平面であるはずの紙プリントが誘い込む美しい限りの空間世界。キャンバスはそれ自体が物としての存在であることを発している。布目を持つキャンバスは物であるから、自分はそれを物として扱い違和感無く絵具をのせ、エマルジョンを塗っていく。そんなキャンバスを扱っていくことにより、写真本来が持つ「時間と空間の世界」の何と素晴らしいことかと気づかされる。「写真」ということだけで見ていけば、それが持つ空間世界を表現するのにプリントの魅力を遺憾なく発揮、追及していくことは大切なことと思われる。

 そういった面で未だ不十分なキャンバスであるが、もし、紙プリントに匹敵する発色と光沢を持った時、それはどのような表現手法の世界へと広がっていくのだろうか。


2011年03月01日
大嫌いな暗室処理

 最近、大判プリンター(PX-7550)を導入し、インクジェット用キャンバスにプリントし、木枠に張って作品を作っている。かなり以前からキャンバスに白黒大判プリントを貼り付けたり、その上からアクリル絵具や水干絵具で着色したりということを行っているので、今は楽しくやっている。そんなわけで、単純な写真作品となるわけもなく、結局絵具やメディウムの登場となっている状態だ。それでも自分としては、自分の作品は写真だと思っている。まず、写真があって、そこから作品作りが始まっているからである。

 以前の写真といえば当然、銀塩写真のことであり、私自身も数年前までの約30年間、ほぼ100パーセント白黒自家処理を行っていた。私は暗室処理が大嫌いで、いつも機嫌悪く、時間と薬品に悪態をついていた。自分は理科系の人間であり、そちらの学校も出ているのであるから決して暗室処理が不得手と言う訳でもなく、フイルム現像薬は単薬からプロマイクロールに近いものを自家処方しているほどである。にもかかわらず、暗室処理というものは感性と正確性が同居したようなものであり、そのもどかしさが私を不快にさせていたのであろうか。


2011年02月10日
物書きの友人

 最近、東京を中心に創作活動していた頃のような現代美術に近い写真作品を制作している。一見、アイデアに頼ったような作品であり、あらかじめ作品構成が出来ていて撮影する場合もあるけれども、多くの場合、とりあえず撮影現場に出向き、カメラを持って被写体を探すことにしている。そこでの撮影現場とは、今の私の場合幼少期を過ごした勇払原野であり、そこで被写体と対峙する時、今まで私が積み重ねてきた考えだとか、こうしたいとか、アイデアだとか、そういったもの達が現れ、撮影という行為にいたるのである。

 先日、東京で物書きをしている友人から電話が入った。30年来のその友人はそれなりに物書きとしては成功しているのであるが、本当に書きたいと思っている小説だとか、詩だとかを書くことが出来なくて悩んでいるようであった。彼は二十歳前から本当に文章が上手く若い頃はよく詩だとかを書いていた。私から見れば彼が物書きを本業としながらも、自身が望むような小説だとかを書いていないということが不思議でもある。それを世に送り出すとかは考えず、まずは書くことが大切なのではなかろうか。

 私の場合、幸運にも写真を撮るという行為は今、極めて個人的な作業となっており、それで生計をたててはいない。しかし、自分にとっては切り捨てることの出来ない行為となってしまっている。私は物書きではないから良くわからないが、とりあえず、ペンを握ることが大切であり、書きたいことはすでに存在しているのではなかろうか。


2011年01月16日
アナログ写真へのこだわり

 今年も年の初めに旧友からのハガキが届く。私からしてみれば未だにアナログ写真にこだわっている知人が多いことに驚いた。写大時代の先生や、写真を仕事としている人、個人的な写真作品を作り続けている人等、仕事上ではデジタルを使用していても、いざ、個人的な写真作業となるとアナログにこだわる知人が多く、私の年代からしてそうなのかなと考えてしまう。しかし、それ以上に多くの友人たちが写真を撮り続けていてくれていることに喜びを感じた。

 焼きこみ、覆い焼き、副露光、ソラリゼーション、サバチエ効果、等様々な手法が紙焼きプリントの際に用いられてきた。特殊効果は別としても、自分の意図するプリントを作り上げるため様々な工夫を誰しも試みてきたと思う。そして私はさらにコンセプチュアルな見せ方をするために複数枚のプリントで見せるという手法を多く用いていた。現在、ほぼ100%デジタルによる作業を行っている私にとって、デジタルという手法は大きな道具となっており、その道具を自由に、様々に使いこなしてみたいと思っている。

 アナログ写真の素晴らしさ、そしてそれにこだわる事、共に私はそれらを肯定する。ただ私は、自分が手に入れた道をそのまま進んでみたいと思っている。私は様々な手法を用いた写真表現を肯定する立場ではないし、ましてや否定する立場でもない。ただ私は自分の思う表現を試みて行きたいと思っている。


2010年12月24日
川田喜久治の「しみ」

 川田喜久治のオリジナルプリント・地図の「しみ」をご本人から頂いたので、作業机の横に飾り、いつでも見られるようにした。それをしばらく見ていると、それが本当に「しみ」に見えてきた。その「しみ」は写真だとか、物だとかではなく、ただの黒と白に見え、黒は限りなく黒く、白は限りなく白く、黒は黒という色であり、白は白という色であり、その黒と白は、光と影のような相対関係ではなく、有るという概念・無という概念、0という信号・1という信号、のようにそれぞれが単独で存在するものであるが、全て黒といった空間では個という存在を意味する形を見出すことが出来ないように、規則性を失った黒と白がその空間という場を占めていた。

 川田喜久治の写真では「地図」を代表として現在に至るまで、時代・事実・物、が川田喜久治の写真を構成しているが、それらは川田喜久治の作品を構成するためのオブジェであり、実質的な本質は川田喜久治という存在が作品を作り上げているということである。
 ※上写真は川田喜久治2002年プリント・The Map 1960〜1965 広島原爆ドーム「しみ」の一部分