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照井康文のblog

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2007年05月24日
時間

 時間と空間との関係については、カントによる理論や「存在と時間」・ハイデッガー著に学ぶところが大きい。

 私が所沢に住んでいた10年以上も前、小笠原諸島の父島へ2週間程旅をしました。当時の父島ではテレビがNHKのBSしか映らず、新聞も遅れてやってくるといった状態で情報社会とは無縁な空間を持っていたのです。父時での時間を過ごし東京の竹下桟橋に戻った私は、しばらくの間、東京での時間に戸惑いを感じたのです。何もかもが、まさしく空間自体が私の先を足早に進んでいったのです。

 カメラは1000分の1秒・1秒等の時間で光の痕跡を捉えていく。出来上がった1枚のプリントにはその場の空間が平面となって現れている。それは持ち運び可能で、明日も同じ姿でいるのである。見る人や場所が変わっても物自体が変化することも無く。
 私が何を考え、何か作品を作ったとしても、場所(時間と空間)によっては無用の長物でしかないであろう。しかし、時間と空間が「私」無くしては存在しないのであるならば、前進は可能である。


2007年05月21日
写真のあり方

 5月も終わろうとしているのに北海道はまだ涼しく、所沢に住んでいた頃の暑さを懐かしく想う。最近、アナログレコードプレーヤーを出してきてJAZZを聴いている。とてもゆったりとした音で北海道での静かな環境のもと贅沢な時を味わっている感じがする。しかし、苫小牧市内では中古レコードを扱っている店が1件しかなくとても残念に思うのです。
 考えるに北海道に移り住んで早4年、美術展に行っていないことに気づいた。苫小牧には美術館が無く、札幌にしても興味をそそる美術展など開催されないのである。1985年・高輪美術館での「イヴ・クライン展」、1996年・神奈川県立近代美術館での「山下菊二展」、1999年・東京都現代美術館での「草間彌生展」等を見たときの衝撃を北海道ではもう味わえないのであろうか。

 印刷技術の進化とともに写真のあり方は大きく変化してきた。現在はインターネットを介してさらに変化を遂げようとしているように思うし、そうならなくてはいけないと思う。
 オリジナルプリントによる写真展覧会は貴重な時間を与えてくれるが、印刷物としての写真集にもその中に流れを持っており、一つの美術作品となっていることがある。川田喜久治の写真集「地図」(復刻版・月曜社)を始めて手に取ったとき、その小さなサイズ(物理的にはそんなに小さいわけではない)に驚いた。が、中味の大きさにはもっと驚いた。同じ川田喜久治の写真集「ラスト・コスモロジー」(491・三菱地所株式会社)が手元に届いた時には、その大きさと薄さにまたまた驚いた。両写真集とも、完全に作品である。

 デジタル化の普及とブロードバンド化により現在、自分が写した写真を容易に発信することが出来るようになった。有名作家に限らず、誰もが、自分の作品を発表する場を持つことが出来るし、大きなチャンスがそこに潜んでいる。


2007年05月19日
考える言語

 人間は言葉を用いて考える。頭の中には自分自身との会話が溢れている。頭の中で言語を用いず何かを考えるという事は想像し難いのではないか。
 では、犬は考えないのか。パブロフの条件反射は有名であるが、学習による反射行動や無条件反射だけで生きているとは思えない。我が家にはグレートデンと柴犬が飼われているが彼らの行動を観察していると、犬は考えない生き物であるとはどうしても思えないのである。イルカや猿ではどうか。条件反射の起こると言われているアメフラシやゴキブリではどうか。人間は言葉を発展させ、用いることにより、より高等な考えを可能にしたということではなかろうか。

 写真を撮影したり絵画を描いたりする場合に、考えることなく、感性や感覚だけでそれらを実行していく場合がある。対して考えながら(考えてからではなく)実行する場合もあるであろう。どちらがどうかという問題ではない。私自身といえば作品自体を制作する場合には出来るだけ考えないようにしているのですが、最近の作品をかえりみるとどうも考えている痕跡がうかがえるのである。
 考えるとはどういう事か。考えてしまいます。


2007年05月15日
おかしな数式

 a=10
 b=20
 a=a+b
 aの値は30となる。

 一見不思議な数式でふざけていると思われるかもしれませんが、JAVA言語をご存知の方なら不思議でも何でもない事態です。実際パソコンで以下のJAVA言語を書いてみます。
 class Sample02 {
  public static void main(String[] args) {
  int a = 10;
  int b = 20;
  a = a + b;
  System.out.println("aの値は");
  System.out.println(a);
  }
 }
 次に実行させて見ます。
 aの値は
 30
 という結果になります。

 Aというデジタル画像があります。Aを多く完全複製することが可能です。Aを加工して違う画像に変えることは当然、Bの画像をAの画像に書き換えることも可能となり、パソコンで実行してみると実に簡単な作業です。
 アナログ写真(一般的に銀塩写真)では事情が異なります。プリントであれ、ポジ、ネガであれ非常に物理的なアナログ写真は完全複製が困難であり、加工にしても物理的作用が必要となり、ましてや違うアナログ写真に置き換えること等、不可能かと思います。
 デジタルの利点は時として欠点となり、アナログの欠点は使い方次第で時に大きな利点となります。表現とは作家のみならず、何人も必要があれば何でもありなのだと思うのです。但し、危害を加えるなど異常をきたしてはいけません。
 先のJAVAによるプログラムの実行ですが、どんどんaを書き換えていくことは当然可能です。しかし、逆戻りはしません。表現者としての私には、そこに何か大きなヒントがあるように思えてなりません。


2007年05月14日
五感

 五感・人間が外界の刺激を感じる事が出来る五種の感覚。視覚・聴覚・嗅覚(キユウカク)・味覚・触覚。
 体感・内臓に加えられた刺激によって起こる感覚。 飢え・渇き・吐きけなど。
(以上いずれもShin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd.)

 五感・一般的にカレーライスの匂いを嗅ぐとそれがカレーライスの匂いであることを認知し、カレーライスの写真(白黒でも)を見るとそれがカレーライスであることを知ることが出来る。必要に応じてカレーの触感やライス(ご飯)の触感も見ただけで思い出せる。時によって、カレーライスを食べている音を聞くだけで、それを理解することができる。五感とは経験を通して学習することにより取得しているのではないか。
 テーブルの上に壺が二つのっている。テーブルには様々な形態・種類があり、壺も同様である。にもかかわらず我々は深く考えることなく、テーブルであること。壺であること。テーブルと二つの壺の位置関係が理解できる。どこからどこまでがテーブルで、二つの壺はそのどこにあり、前後関係等、考えることはない。(「ものの考え方」O.S.ウォーコップ著・参照)
 我々は経験上の学習を通して五感を発達させ、物事を理解している。言語も同様である。

 体感・暑い、寒い、飢え等、人間の生存に関わる事態は学習や経験によるものでなく、必要に応じて感じる。(固体を超えた生命全体としての長い流れで考えた場合には学習が関わっているのかもしれない)

 海辺を撮影した一枚の白黒プリントから、薄青色の空、白く輝く碧色の海、爽やかな向かい風、潮の香り、白く熱く小粒でサラサラとした砂、波の音、を感じることができる。
 雪山の写真を見て寒そうと感じることはできる。「寒い」と感じた場合には個人の歴史の中で何か、傷を負った事がありそれがよみがえってきた場合がある。

 ある夜中、目が覚めると部屋の片隅に人が座っている。明かりを点けて見ると、椅子に服が掛かっているだけだった。見間違えたのである。ある夜には目を凝らしてみてもそれが何であるか理解できない事もあった。
 それが何であるか(物理的に)理解できない写真、絵画もある。作者には当然理解できる事柄が鑑賞者には全く理解できない場合もある。見たことも無い物。聞いたことも無い音、経験の無い匂い、味、触覚。無視することもあるが時に不安に襲われ、嫌悪を感じることがある。しかし時に、興味を抱き理解しようと歩みだす場合もある。


2007年05月13日
西木実という作家

 1986年・銀座の藍画廊で西木実の作品と出会った(左記作品)。それは現像された写真のネガを描き写したもので、私に大きな衝撃を与た。故・西木実がどのような位置づけの作家であったのか私には良く分からないが、私の写真に大きな影響を与えた画家である。彼の画家としての全貌を知ることは現在困難であり、彼自身写真とどう関わっていたのかもわからない。
 当時私は西木実と交流はあったものの、もっと親しくしていればと今悔やんでならない。私には絵を描く技術もセンスも無い。一時期私は個展で絵を描いて展示もしました。今思えば実に未熟であったと思う。しかし、私が長いこと絵筆に関わっていた事は、自分にとっての写真を再認識させる結果となったのです。写真に関しての技術的に不足はありません。それは必要に応じて次へ進めるということです。
 20年以上も前、美術手帖で読みました。「何を表現するかではない。どう表現するかだ。」表現したいことは本当は決まっているのです。


2007年05月11日
裏焼き

 写真学生の頃、私が通っていた大学(東京工芸短大・旧写大)には実家の写真館を継ぐという目的だけで、写真には全く興味を持たず、知識も持ち合わせないで入学してくる学生が多くいました。暗室での実技の時、一人の学生が裏焼き(左右反転のプリント)をしました。その学生は「鏡には左右逆に映るのでこれが正しいと思った。」と言うのです。
 その後私、照井康文の写真作品では多くの意図的な裏焼きプリントが登場してきます。ほとんどの場合、それが裏焼きである事に鑑賞者は気づきません。そこで複数のプリントの中に数枚、看板など文字の写り込んだプリントを含めます。それでも裏焼きに気づかない人がほとんどでした。

 人に分かってもらえる表現手法を選ぶべきか、分かってもらえなくとも写真は真実を表している(この場合裏焼きであること)のだからそれでよしとするのか。逆に、「気づかない真実がそこには多くある」のが写真である。とすべきか。私は今だに考えさせられています。


2007年05月10日
行為

  私は写真学生時代(東京工芸短大・旧写大)、ありとあらゆる写真を楽しく撮影していました。28年程前の事です。そんな時、自分はこれから何を撮影していくべきか疑問を持ったのです。そこで、自分の感情を出来る限り表現しないよう努め、新宿地下街の広告ポスター全てを撮影しプリントしました。続いて新宿地下街メトロプラムナードを全て横並びに撮影しつなげました。
 その次に制作したのが、ヤツデの葉を鋏で切っていく過程を撮影した作品「行為」です。そんな事ばかりしている私は大学内の異端児となっていて、大学にはほとんど足を運ばず写真を撮っては暗室に入る日々を送っていたのです。ある機会があって作品「行為」を細江英公氏に見てもらいました。細江英公は「誰がなんと言おうが自分のスタイルでやりとうしなさい。」と言って下さいました。後にその頃の写真は山崎博氏の目にとまり、カメラ毎日の「アルバム」に掲載されることとなりました。

 しばらくして、次の大きなテーマとなったのが「EYES」シリーズです。シリーズ最初のものは皇居の前に、目にマスキングテープを貼った特定の女性を立たせ撮影したものです。そんな単純な作業は場所を変えて数年続きました。
 最初の個展は1986年、神田の真木画廊。現代美術で中心的な役割を担っていた画廊ですが、当時の私は写真よりも現代美術から大きな影響を受けていたのです。そこで真木画廊から教わったことが「美術は労働だ」という事です。当時私は1メートル大のプリントを自分で作成し、それでも足りなければ針と糸でプリントを縫い合わせていくような事を行っていました。そのような事に限らず撮影地まで重い機材を運んで撮影し、暗室に入る事等、全て労働だという事を認識させられたのです。

 後に感じたことですが、そんな単純な行為を撮影しプリントしただけの作品なのに、個展やグループ展で展示していく度に、「この作品はあの人のものだ」と認識されだしていったのです。写真が真実を写すのであれば、どれだけ単純で、感情も無く、美しくもなく、ただの写真であってもそこには、私の生き様が写り込んでいることを知りました。


2007年05月09日
植物図鑑

 現在、図鑑の主流は写真によるものが多いようですが、植物図鑑や野鳥の図鑑等に関しては、イラストによる図鑑のほうが非常にわかりやすいと感じています。
 特に高野伸二によるイラストの野鳥図鑑は突出しています。高野伸二は絵を描くことに関しては素人ですが、野鳥の研究者としては第一人者です。写真図鑑では全てがそのまま写り込んでしまう事自体が、時にそれをわかり難くしてしまいます。
 照井康文の初期の写真作品「行為」はその事を考えながら制作されたものです。


2007年05月09日
写真は真実を写すか。

 写真は真実を写すか。
 写真、特にアナログ写真(銀塩写真)は光を写し込むことにより成り立っています。では光のない世界(実際に存在するのか)、もしくは微小な光の世界はどうやって表現されるのか。逆に均一で圧倒的な光の群れはどう表現されるのでしょうか。
 何かを認識する為には常に対象物が必要なのでしょうか。写真では光の強弱、陰影、グラデーション等によって表現が可能となっています。
 会話は一人では出来ません。人間は一人では生きていけません。そこに障害や突出がおきて弊害が生じた場合、人は病気と診断されるのでしょう。

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