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照井康文 Yasufumi Terui / Japan
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2010年06月24日
イメージの想起と摺り合わせ
白黒写真の自家処理を行う場合、フイルム現像の後、コンタクトプリントをおこしてから写真の選定作業を行うのが一般的な作業と思われる。白黒フイルムによる写真制作が世間的に激減した現状ではどうなっているのか不明であるが、私個人の場合は今でも同様の作業を行っている。バライタ紙に焼かれたコンタクトをルーペで覗き込みながら写真をセレクトしていくのであるが、デジタル作業に慣れてしまった今、コンタクトプリントでは細部が全くと言っていいくらいに見えないのである。当然、以前からそうであったのであり、そのことを特に苦と感じていなかったように思う。撮影したときのイメージを思い出しながらコンタクトと擦り合わせ、細部を見ることなく、イメージを想起させながらセレクトしていくのである。
そのような「イメージの想起と摺り合わせ」とでも言ったようなプロセスが、デジタル写真を使い始めた当初には確かに引き継がれていたと思うのであるが、今は撮影時にオブジェをよく見、選定時に写真をよく見るようになった。デジタルでは作業過程で細部がよく見えるようになったため、必然的にそう変化したのだと思う。
2010年06月14日
観察
ものをよく見、よく観察し、絵を描き上げていく画家がいる。写真の場合、それ程注意を払わなくとも細部にわたって詳細な画像を得ることができる。私の場合、撮影する際にはまず自分の目で対象を見、それがそのまま構図となり、カメラを構え、ファインダー越しに再度対象を見てシャッターを切る。その際の私は対象となるものをよく観察などしていないのである。見てはいるが観察していないのだと思う。奄美を描いた画家、田中一村は数十点の奄美の写真を残しているが、それらの写真は実によく見、よく観察された写真のように思われる。作品を作り上げるスケッチの補助手段であったのかもしれないが、実に造形的で美しき写真となっている。
いかなる分野の作品にあっても、観察するということの重要性は察しされるところであろう。それは対象となるオブジェ自体に限ることなく、何かを見、何かを観察することなのだろうと思う。
20010年05月28日
手が届くような「物」
30年程前、写大の学生だった私は「写真は真実を写す」という信念の元、風や気温、音等も場合によっては写しこむ事が可能である。そう考えながら雰囲気漂い、空間を写す、よって時間を写すこととなるような写真を撮ることに努めていた。長らくその傾向は続き、光を写すようになり、自分の行為、生き様が写し込まれると信じて写真と向かい合ってきた。50歳を過ぎた今、そういったことに対しての執着心は覚め、素直に何かを写すようになってきた気がする。
今の自分にとってはその「何か」とは「物」であるようだ。手が届くような「物」であり、風景とか全体的とか、状況とかいったものではなく、しっかりと自分の目で見ることの出来る「物」。良い感じの風景も老眼の私には細部の「物」が見えないのである。そういった事は決して物理的な事として片付けるのではなく、現状の私がそうだという事である。そしてその細部をじっくり見るという事は映像や特に動画に比べて写真画像のもつ優位的特性にあるのではなかろうか。
2010年05月06日
ごみと言われる物
勇払原野の海岸は日々その姿を変える。ごみが流れ着き、波は砂浜を洗い、砂壁を削り、ごみを流し去る。中にはその海岸の一部となり、砂に埋もれていくごみもある。ひどいのは、人が直接ごみを捨てに来たり、4輪駆動車やオートバイで砂浜を駆け巡り、自然をそれとなく破壊していく。
以前からごみと言われる物を時おり撮影していたが、そのような物は一様に汚く写ってしまうようだ。最近、「物を写す」という意識が以前に比べて、強くそして自然と体の中に芽生えだしたように感じる。人間が作り出した文明は、いつまでごみを生み出し続け、処分し続けるのだろうか。一部の、そして多くのごみは自然界に取り残されていき、同化していく。ごみと、そうでない物との違いは時間と共に縮まり、物はごみとなり、ごみは物となっていく。そして正しくはごみも物だということである。
2010年04月08日
物を現す力
デジタル写真の進歩と普及により今やデジタル写真がアナログ銀塩写真に劣るとは言えないと思うし、それを問う必要性も無くなってきたのではないかと思う。10年程前の日本写真芸術学会の会報誌にはデジタル写真はまだまだ銀塩写真に追いついていない。などといったような内容がよく書かれていた。今や一般的に写真という言葉の中にはデジタルとアナログとの区別はもはや無いのではないかと思われる。利便性や精密さを考えた場合、今やデジタルの方が優れているのではなかろうか。
「物を現す力」もしくは「物としての力」が白黒のアナログプリント(銀塩印画紙)にはある。そう思わせるプリントと出会うときがある。それは人間の意識を動かすのか、または実際そこに白黒のグラデーションを持った、光で反応した銀粒子という物が実在するからなのか。
デジタル写真の誕生は感材(フイルムと印画紙)と処理薬品や処理水を無用とした。そしてそれに伴う労力からも開放してくれた。25年程前、神田の田村画廊で美術の表現に労力は重要だといったような事を教わった。そして今それは労力の量が優位を決めるのではないと思うが、労力自体の重要性に変わりは無いと思う。
2010年04月06日
現実の光の跡
4月に入り北海道にもようやく春の気配が感じられるようになってきた。今年もまた原野の写真を撮ろうかと思っているが、昨年は結果的に多くの日々を撮影に費やしたものだ。長く閉ざされた冬の間は油絵を描いていたが、どうも長期的な集中力の持続が困難であり、次から次へというようには絵が描けないのだ。それに比べて写真を撮る場合には集中力の持続というのが苦になっても、必要性を感じれば可能な限り続けることが普通にできるのが現状である。写真については専門大学で学び、35年程も撮り続けていることになる。それが自分の強みなのだと思う。絵に関しては全くの無学であるため技術を持ち合わせず、考えることなく自由に描くというわけにはいかないようである。
改めて大伸ばしのデジタルプリントを見てみると、恐ろしいほど精細な世界がそこにある。アナログの銀塩写真で感じた以上の世界であり、それは写真が美術の世界で独立した世界観を持ちえるであろうことを予想させるに十分だと思う。デジタル写真もアナログ写真も写真には変わりなく、レンズを通った現実の光の跡である。
2010年03月14日
田舎の少年
30年以上も前のある年の暮れ、苫小牧高専の学生だった私は同級生の川村卓正と一緒に北海道の南端、函館から北端の稚内まで夜行列車で旅をしたことがある。苫小牧は当然のことながら田舎であったが、列車が北端に近づくにつれ、同じ北海道内でありながら流行が遅れて進んでいることに気づいた。当時の私や友人も、東京という都会を見たことも無く日々の暮らしを送り、ラジオの深夜放送から情報を得ていた。私の住んでいた勇払原野の掘建小屋は、冬ともなると夜のうちに枕元に置いたジュースが凍り、夏には自分の部屋の畳にキノコが生えるといった、とても粗末な家であった。そんな暮らしの中で私はプログレッシブロックのYESのレコードを好んで聴いていた。田舎の少年も前衛というものに強く興味を抱き、美術手帳を読んでは東京神田の田村画廊に憧れを抱いていたものだった。
その後の私は所沢に暮らし、憧れの田村画廊や銀座の村松画廊などで個展を多く行い、40歳を過ぎた頃に再び北海道へ戻り今こうして暮らしている次第であるが、北海道に戻ってからの約7年、一度も東京へ足を運んでいない。東京へ行く機会が無いのではなく、自分に踏ん切りがつかないのである。今は流行りや現代の美術にそれほど興味を抱かず、それよりも勇払原野に暮らした頃の自分の世界を取り戻したいという思いが強いのだと思う。木田金次郎の絵と出合ったことも強く影響し、勇払原野に通う度に昔の匂いが蘇ってくるのである。
勇払原野の写真を撮り続けることにより、今の勇払原野を知り、昔の私を探している。そして勇払原野を描いた絵には自分の「元の心の記憶」といったようなものが、写真よりも真実となって立ち現れているように思えるのだ。
2010年02月26日
絵画の証明
当たり前のことではあるが油絵などの絵画は一点物であり、加筆される度にその物は変化を遂げ続け、決してその前の姿に戻ることをしない。それを行うのは一般的に作者自身であり、当然のごとくその行為が行われていく。完成した油絵はその大きさと塗りたぐられた絵具、そしてキャンバスを永遠に持ち続け、それは、それ自身が絵画の証明でもあるといったように、である。デジタル写真はコピーや加工が容易であり、そしてそのデータはとてもコンパクトである。アナログフイルム写真の頃は今よりずっと絵画に近く、版画のようにであったのにと思う。
今の写真界はデジタルが主流であり、そのことは決してそれを嘆くこととはならない。写真は飛躍的な進化を遂げたのであり、その進化に合わせて写真に対する理解や考え方にも大きな柔軟さを獲得していかなければいけない。デジタルの世界を見た人間は自然と新たな物の見方を獲得し、新たな世界観を持ち、我々はその眼で広く美術の世界をも見ていかなくてはいけないのだと思う。
しかし、である。少なくとも今の私の油絵の世界にはそのような世界観は不要であるように思われ、絵画は絵画の世界として終わり無く、深く入り込んでいくようなのである。写真が何かを記録、再現、表現するのに対して、絵画の持つマテリアルと物性はそれ自身が作品という「物体」であることを際立たせているように感じられる。優れた写真プリントは、物としての存在と価値を持つが、そのことが写真である証明とはならないのだと思う。
2010年01月19日
鉄道写真の年賀状
北の大地での冬は全ての動きが鈍くなり、移動距離も短くなる。1月の初めに降った雪は根雪となり、私自身、撮影へも出かけなくなり、今はひたすら油絵を描いている。ひたすら雪が消えるのを待ち望んでいる。毎年、鉄道写真の年賀状を送ってくる知人がいる。栗山英親という彼とは写真で仕事をしていたときに職場で知り合ったのだが、15年以上前のその頃からずっと、鉄道写真の年賀状をおくってよこし、それを見て私と妻は共に知る友人である彼が元気でいることにほっと安心をするのだ。
鉄道写真を送ってよこす彼にとって写真とはどのようなものなのか、写真との接点は何処から始まったのか、愚問かもしれないが聞いてみたい気がする。
中学生の頃の私は絵を描くのが好きで油絵も描いていた。国立高専に入学すると父がカメラをプレゼントしてくれた。すぐに私は写真に熱中し、高専卒業後は写真大学に進んだ。写真の世界に没頭した私はひたすら写真とは何かを考え、撮影し、暗室処理を行い、写真を極めようとしていた。そして現代美術の世界にも足を踏み入れ、今再びこうして油絵を描いている。絵を描くのも写真を撮るのも私にとっては表現手段として同等のものなのかもしれない。今再び気兼ねなく油絵を描くことが出来るのは、生まれ故郷である北海道へ戻ってきたからだと思う。所沢に住んでいた頃には個展のために写真作品や絵画作品を作り続けていたが、今は無目的に、ただ描きたいから描き、ただ写真を撮りたいから撮影をしている。
※写真は愛犬のグレートデンを撮影
2009年11月27日
魚類学者、疋田豊治の写真
魚類学者、疋田豊治(ひきたとよじ1882〜1974)のガラス乾板写真展が北海道大学総合博物館にて1ヵ月間、開催された。そしてこの展覧会は北海道大学の院生、廣田理紗が疋田豊治の写真を研究、調査したことが基点となって行われたのである。疋田豊治は現在でいう北海道大学で1909年から1953年まで教官を勤めた魚類学者でシシャモの名付け親、さらには北方カレイの研究者として有名である。そんな学者が、北大で教鞭をとっていたその期間に6900枚ものガラス乾板を残したが、その被写体は魚類標本や調査の写真だけではなく、広く北海道の風景写真や函館高水(函館高等水産学校)での記録写真にまで及んでいる。
私は疋田豊治の魚類標本写真に興味を惹かれ今回の写真展へ足を運んだ。小規模な展示ではあったがガラス乾板から再プリントされた写真は超一流の美しさを放ち、特に函館高水の記録写真と、魚類標本の写真は私を魅了した。私はずっと以前から「標本的な写真」ということを考えており、それは科学的に言う標本に限定されず、広く宇宙的自然から、自分の生き様をも含んだ私という個人、の記録までをも含んだものである。言ってみれば「写るもの全てが標本と言いえる」といったような意味合いであるが、それを意識すると否とでは違うと思う。そして「標本」と「記録」とは極めて近い意味を共有しているのではないかと察することが出来る。
※写真は1914年、疋田豊治撮影「マンボウ」
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