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照井康文 Yasufumi Terui / Japan
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2009年10月27日
岡林信康のコンサート
フォークの神様と云われた岡林信康のコンサートが10月16日に登別市民会館で行われ、中2の娘と二人で行ってきた。私の学生の頃は拓郎や陽水の時代だった為、私が岡林信康の歌を知ったのは大人になってからであり、そんな私の影響を受けた娘はフォークが好きになり、中でも岡林信康の大ファンとなってしまった。当然私も岡林信康の歌が非常に大好きである。
岡林信康の作る歌はフォークから演歌、そしてエンヤトットへと移り変わり、そのスタイルは、彼以降に輩出された多くのフォーク歌手が様々な新しいスタイルへと移行していったのに比べ、日本人であることを大切に、そして信念を持って生き抜いてきた結果だと思う。だから彼のフォークソングはいつもフォークソングであり続けたのであり、フォークの神様と云われたのは間違いではなかった。岡林信康の歌は40年越えた今の時代でもフォークとして聴き続けられるに値するのだ。
2009年10月14日
時と場所の記録
ある美術作家がartist-miという名で
「デジタルタブローとは」
というブログを作り、意欲的で挑戦的なデジタル作品の制作に取り組んでいる。そんな彼の行為と作品は私自身にも大きな刺激となっている。もともとは画家のようであるが、そんな
作家の撮影した写真
を見た。1980年前後にライカで横浜を中心に撮影した何か懐かしさを感じさせる写真であるが、それらの写真には私の写真に欠けているものがあった。それは「人間文化においての時と場所の記録」とでも言ったようなものだ。彼の写真は明快である。以前から気づいていた事ではあるが私の写真では「いつ、何処で、誰が」、「何を」撮影したのか、といったことが第三者にはよく見えない、もしくは不問とされてしまっているのであり、それは私の大きな欠点となっている。写真は人間が「何か」を撮影し、それを人間が見るのであり、そこには様々な文化と、時代がある。
現在の私は撮影において、どのように見せたいとか、表現したいとかは考えていないと思う。ただ感じるままに撮影するだけで、2時間ほど撮影し続けると感じることに疲れ、頭と手が止まってしまい、撮影できなくなってしまう。写真とは何か。人によってその考え方や答えは違うであろうし、多分そこには間違いも正解もないのだと思う。
2009年10月09日
気まぐれな光の神様
写真は光の痕跡により成り立ち、そこには現実の物体が介在し、そして、それが直接的に立ち現れている。デジタル写真映像やデジタルプリントであっても通常そこには同様の事象が成り立っているであろう。同じような視点から見た場合絵画では「記憶」といったものが立ち現れてくる。もちろん「記憶」によらない絵画もあろうが、その重要性に変わりはないと思う。写真は「記憶」を超えて「記録」となる。私は自宅にいながら勇払原野を描くことができるが、写真を撮るには季節と天候、さらには時間帯を選んで現地まで行かなくてはいけない。そして出来上がる写真には気まぐれな光の神様が存在すると最近思うようになってきた。
所沢で白黒写真を撮影していた頃には「光を写す」ことに努めていたが、北海道に移ってからはいつしか「物を写す」状態に変わっていた。そして今は「光という物を写す」感覚を感じてきているところである。
2009年10月08日
アナログフイルムを残すことの意味
ライカ判とブローニー判合わせて約3,000本の白黒ネガフイルムが我が家には保存されており、さらにそのほとんどのコンタクトプリントも保存されている。しかしデジタルカメラを使用するようになってから、それらとはほとんど縁がなくなり、ここ1年程はアナログカメラでの撮影が無く、暗室作業も行なわれていない状態となっている。デジタル写真のデータはRAWファイルのまま外付けのハードディスク2台と、DVD2枚、それぞれに保存され、必要なときにすぐ呼び出したり、又は持ち出したり出来る様になっている。一方、アナログ写真のコンタクトプリントは量的にもかさばる為、隣家にある暗室に追いやられてしまった。
アナログ写真であることの意味。さらには作品化されたときのアナログ作品とデジタル作品との物的差異はまだ残るであろう。それはデジタルがアナログに劣っているという事では決してなく、その逆とも言い得ないのだと思う。
3,000本程のフイルム、そのほぼ多くは今後、撮影者自身である私自身にも開けられること無く時を過ごしていくのであろう。私自身がそのフイルムを残していくことの意味、そして今後その意味はどう変わっていくのか。
2009年08月18日
今の自分の居る場所
札幌芸術の森
美術館で開催中の「クリムト、シーレ、ウィーン世紀末展」を家族3人で見てきた。中2の娘には大変好かったらしく、出口から戻っては見直していたほどである。しかし私にとっては非常につまらない展覧会だったのであるが、私は20代の頃に東京で同じ内容の展覧会を見ており、その時には衝撃をもって見たことを未だによく覚えているのである。若い頃の自分はあらゆる未知の可能性に満ち溢れ、様々なものに興味深く接していた。しかし50歳となった今の自分は、この自分の原点とも言える苫小牧に居を据えて生活していくこととなった現在、写真の被写体や絵のモチーフが「ここ」(今の自分の居る場所、具体的には勇払原野等)であり、「ここ」以外ではないのである。そんな今の自分の残された可能性は「ここ」にあり、そして興味を持つのは「ここ」に近い物達なのである。
札幌芸術の森の敷地内には有島武郎旧邸があり、そこに木田金次郎の油絵が一点飾られていた。それを見たことと、知ったことは大きな収穫であり、次にそこへ行く日が楽しみとなってしまった。
※上写真は有島武郎旧邸にある木田金次郎の油絵
2009年08月03日
記憶と想い
私の中に存在する幼少期を過ごした勇払原野の記憶。50歳となった今、勇払原野を撮影して歩くとその記憶が時折目の前の景色と重ね合わさるのであるが、そういったときに限って期待した写真に仕上がらないようである。自分は何を求めているのか。自分の写真作品に「記憶」を求めてはいない。しかし時によって、その「記憶という想い」を蘇らせたいと思う景色に出会うこともある。それを表現するには今の自分にとって、写真よりも絵画の方がより適していると感じた。
木田金次郎
の絵画に直接触れることにより、私の中で何かがふっ切れたように感じたのである。
写真には写真の力が有り、絵画には絵画の力が有ると思う。しかし時に、木田金次郎の絵画のように、それは「絵画という物」を越えた力となっている場合もある。言葉では言いがたく、直接その物と出会った時、そのことが理解できるであろう。
※左写真は照井康文作「原野」の一部
2009年08月02日
西村計雄記念美術館
木田金次郎美術館の帰り道、時間に余裕があったので岩内郡共和町にある
西村計雄記念美術館
に立ち寄ってみた。木田金次郎の作品群が余りにも素晴らしかった為、特に期待もせず、西村計雄(にしむらけいゆう)という人物についても全く知らなかったが小高い丘の中腹にある質素で小奇麗な美術館に入ってすぐ、溜息が出てしまった。「いい加減にしてくれ。なぜこんな所にこんな作家がいたのか。」という想いであった。木田金次郎の作品は美術や芸術といったものではなく、極めて物体的であると感じたのであるが、それとは対照的に西村計雄の作品は芸術という言葉がとても似つかわしく、そして国際的であった。多分、西村計雄の晩年の作品の一部だけを見たならばその素晴らしさを理解することは困難であったと思うが、この美術館では初期の作品から順を追って鑑賞することが出来たし、特に時間をゆっくり使って鑑賞するよう配慮がなされていたように思う。
パリで活躍し、晩年を東京で過ごした西村計雄の作品は、その人物の生まれた共和町で街の誇りとして大切にされていた。銀座を中心に現代美術の世界に親しんできた私にあって、北海道岩内郡という田舎にある二つの美術館は私の生涯にわたって影響を与え続けていくことであろうと感じたのである。
※上写真は西村計雄初期作品「我が家の子供達」の一部
2009年07月30日
岩内の木田金次郎美術館
娘が夏休みに入り、念願叶い北海道岩内町の
木田金次郎美術館
へ家族そろって行ってきた。苫小牧から美笛峠を越えて130kmの距離にある岩内町は日本海に面し、漁業が中心の港町であったことを今も残す人口15000人程の町である。木田金次郎はその岩内に生まれ、生涯をその地で画家として生きた人間である。木田金次郎美術館はそんな海の香りする町の中心に位置し、外観はくたびれた様相を見せ、灰色の空を共有していた。
美術館の館内はコンパクトで綺麗であった。作品を10点ほど見始めたところで、どっと疲れがでてきた。木田の描いた絵は、絵画とは言いえず、何かとてつもない物体を見ているようであり、その物体の前では時間が容赦なく過ぎていくのだった。「そこには何かがある。」確かにそこには絵があるのであるが、それは絵という物体である。絵具と木田の痕跡。そして木田金次郎という名前すらも消し去ってしまう物体。その物体の前では美術とか芸術とかいった概念・言葉自体も無力であった。
木田金次郎とはどのような人物であったのか(実際には有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」のモデルとなった画家として有名)はその作品群を見るのに有用ではなく、ただひたすらにその物体は見る私を揺さぶり続けたのである。私は北海道の原野で幼少期を過ごした人間だからそう感じたのだろうか。北海道に戻って6年となる私にとって、所沢に住み、現代美術に親しんでいた頃に木田の絵画を見ていたらどう感じていたのであろうか、わからない。
2009年06月19日
シンプルな写真
写真のデジタル化が当然のように普及している現在、そのデジタル化の利点を活用することにより、様々な試みと表現技法による写真作品を作り出すことが可能(もしくは容易)となった事は明らかであろう。現代美術の世界に慣れ親しんできた私にとってその事は大きな武器となるはずであった。最近の私の写真は、ほぼ100%デジタルによるものであるが、そのスタイルは極めて平凡で基本的なものであり、ただひたすら勇払原野の姿を撮影しているだけなのだ。
写真学生(写大)の頃の私は、「写真とは何か」を探る結果として異端と思われる作品を造り出し、現代美術の世界に発表の場を得ていたのであるが、そこで私は美術家と写真家との「作品の見方」に大きな隔たりがあるのを実感した。そしてその違いを理解できるようになってきたのはごく最近のことである。写真の始まり1840年代のタルボットの写真作品は身近な景色や建築物、人物、陶器などを撮影したものであり、美術家なのか写真家なのか分からない宙ぶらりんな今の私は、現在そこに写真の基礎を見ている。川田喜久治の光の焼けついた写真、山崎博の光の飛び交う写真、いずれも写真の根源に関わる事象であることは確かであろうし、私は彼らに多大な影響を受け、そのことも私の基礎をなしている。
今後の自分の作品がどう変化していくのか全く分からないが、とりあえず今の自分が作るべきものは何となく見えてきている。それは極めてシンプルな「写真」というものだと思う。
2009年05月12日
絵画と写真の交差
札幌芸術の森美術館で巡回展「絵画と写真の交差」を見てきた。カメラオブスクーラの頃の絵画に始まり、ダゲールの写真、タルボット(ウイリアム・ヘンリー・フォックス・トールボット)の写真が展示され、写実主義の絵画、印象派の絵画、歌川広重の浮世絵、そして多くの写真家の作品が展示され、東松照明、佐藤時啓、柴田敏雄、杉本博司の写真作品でしめくくられていた。総数200点以上でそのほとんどが東京富士美術館の所蔵品で、北海道でそれらの作品(特に写真作品)を見ることが出来たという事は非常に貴重な機会であったと思う。特に写真発明直後から、写真が印刷と密な関係となる以前の写真作品は、私にとって作品の細部まで実に写真的であったのだが、作品保護の為に照明が非常に暗く、軽い老眼の私にとってその細部を見ることが出来なかった事はとても残念であった。
当然のことながら絵画と写真との関わりを再認識させられたのだが、写真自体を見つめ直す機会を得たことと、時代を超える絵画作品の素晴らしさに触れることができた。デジタル写真の急速な進化と普及という時代にあって、「あえて写真を美術作品にまで高めるものは何なのか」という事を今更ながらに考えさせられたのである。
写真はもともと、「時間と空間」という課題を宿命的に持ち合わせており、つまりは「存在に関わる」ものだと思っている。そこの部分を自分の中でどう扱っていくのか。再度考えなくてはいけない。
上の写真は札幌芸術の森美術館・中庭展示「SNOW FALL」を撮影
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