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照井康文 Yasufumi Terui / Japan
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2008年12月25日
カメラが重い

 札幌写真ライブラリーで開催された「8人展-僕らの世界-」(同時開催・bokurano 2008)を見て写真の自由さを感じた。写大の学生時代私はF-1にモードラを付けて毎日様々な物を撮影していた。最近はD700にAi35mmを付けて撮影しているがカメラが重く感じられるのである。重さを量ってみると学生時代のカメラが2400グラム、そして現在のカメラが1450グラムだから決して重いわけではない。にもかかわらず重く感じられるのは被写体が重いようなのである。今の私にとっては被写体がかなり限定されてきている。それは決して好ましいことではない。若いころの私にとっては全てが被写体となり得たのに今はそうでなくなった。結果的にカメラを持って歩いていると不要なカメラを重く感じるのである。

 思い返してみると写大の頃、学生の多くはいつもカメラを携えていたが、先生達がカメラを持っている場面はほとんど見かけなかった。そして今の自分がそのような事態に陥っている。年齢的な問題ではない。デジタル化に伴い写真作業自体は驚異的に軽減されているのにもかかわらず。
 今再び、写真に自由を取り戻さなくてはいけない。


2008年12月17日
Shayne Hillシェイン・ヒルという写真家

 
 ※作品上からShayne Hill作品「九州・軍艦島」「北海道・知床」

 

 2008年12月6日から20日まで北海道苫小牧市のダイトーギャラリーでシェインヒルという写真家の作品展が開催された。シェインヒルはオーストラリア出身で写真撮影学の他高度な写真加工技術、プリント技術を取得した後2007年に北海道苫小牧市に移り住んだ。現在彼はその技術を生かし、xtreme printsというビジネスを立ち上げ、インターネットを利用して世界を相手にデジタルプリンティングサービスを行っている。

 シェインヒルの写真展はかなりのハイレベルであり写真プリントという物体としての存在感を存分に出し切っていた感がある。現代美術の分野を中心に渡り歩いてきた私にとってシェインヒルの写真作品は、写真という「作品」その物であり、幅広く美術という分野で十分に通用する作品であると感じた。問題なのはその作品展が苫小牧で行われたという点である。会場となったダイトーギャラリーは展示空間も素晴らしく苫小牧での美術の発信基地として大きな役割と期待が持たれている。ただ、東京を中心に美術が発信されている現状で、悪く言えば苫小牧は美術の発信レベルが最低だと思うのである。シェインヒルの写真作品は現物を見てこそ感じ取れる素晴らしい物を持っている。ぜひ、他の場所での展示を期待している。


2008年12月15日
苫小牧南高等学校「望洋展」

※作品左上から
「踏みつぶすぞ!」中井友子  「団体」折笠郁子  「ぐぶう」矢崎文葉  「最後の雨」ト部莉沙

 2008年12月12日から14日まで苫小牧駅前プラザegaoにて北海道苫小牧南高等学校の書道部、美術部、写真部による合同作品展、第20回「望洋展」が開催された。つまり高校生(そのほとんどが女子高生)の作品展である。出品点数、質の高さ共に見応えのある作品展であり、おおらかで広々とし、そして自由を感じさせる爽やかな作品群であった。中には将来的にも素晴らしい才能を占めた学生もいるのであろう。それをどうするのかは本人の自由であり権利でもあろう。が、その隠れた才能を起こさせ伸ばすことのできる環境に出会えることの大切さも考えたい。ただ、そういったことが一概に良いことだと言えないのも確かだろうと思うが、私的には生涯を通して何かを極めるのも良いのではないかと思うのである。
 私は自分の好きな写真のために今まで幾ら金を注ぎ込んできたか分からないほどである。その代償として得た物は何も無い。ただ私は30年以上作品を作り続けてきて良かったと思うし、自分の誇りでもあり、さらに極めていきたいと感じている。


2008年12月02日
カラー写真

  今まで30年間写真作品を作り続けてきたが、そのうちの99%以上は白黒写真であった。今デジタル写真を積極的に取り入れているが、あえてそれを白黒作品にする意図も見出せなく、結果的にカラー写真による作品が多くなってきた。自分の中での白黒とカラーの切り替えは意外にもスムーズであった。それは写真という手段を使って「物」や「行為」を収集するような感じを私に抱かせたのである。

 以前からアナログ写真とデジタル写真の違いと、それが意味するところを考えていた。しかしそもそも写真の発明当初や写真が絵画から独立したころも写真といえば当然のことながらアナログであった。アナログ写真もデジタル写真も、「写真」として考えればあえてそこに差異を見出す必要性自体を消滅させることが出来る感じがする。一方逆に、そこに差異を見出し新たな世界を作り出すことも可能であろうと思うのである。


2008年11月17日
心のアート展2008

 「心のアート展2008」(東胆振精神保健協会主催)が11月15・16日に北海道苫小牧市のイオン・ショッピングセンターで開催された。精神障害者による美術作品の展示会でコンクールも兼ねており、絵画を中心に写真、手工芸品など50点ほどが展示。展示スペースの関係もあり小規模ではあったが来場者も多く見応えのある展覧会となっていた。特に絵画作品においては「精神障害者の作品」という言葉は単なる付随物となり、作品自体が自立して表現されているようであった。

 写真作品に関しては技術的な問題が気になった。過度の露光不足、ブレボケ等、意図された結果であれば良いが、でなければ見る側には作品自体へとたどり着く障害でしかなくなってしまう。科学技術による依存効果の高い写真の怖い側面だと思った。

※写真は3点とも同展より、左上から
 「砂の海に映る・・」佐次清 靖
 「赤と黒のいにしえ」蛯澤 恒夫
 「蓮池」佐藤 ひまわり


2008年11月14日
物を作るカメラ

 写真では物(被写体)とのつながりが、深いというよりも絶対的である。しかしいくら絶対的とは言え、出来上がった写真は被写体その物ではない。自家処理によるアナログ写真ではカメラという道具を用いて撮影し、フイルムネガ(ポジ)を作り、プリントという物を作り出す。それは絶対的な「物」である。光の痕跡と軌跡により被写体を写し出してはいるが、出来上がった「物」は、それとは全くの別物である。30年以上もそういった写真作業を続けていると、カメラのシャッターを切った瞬間に最終的なプリントのイメージが確たる姿で脳裏によぎるのである。

 デジタルカメラによる白黒の写真は、私自身の作るアナログ白黒写真とは似ても似つかぬ姿である。それは情報量の問題などではない。今のデジタルはアナログに勝る程の発達を成し遂げた。被写体を忠実に再現するという観点に立てばもはやデジタルの方が優れているとも言えよう。デジタル写真とアナログ写真の違いにはその「物体」性に大きな要因があるのではないかと思う。パソコンのモニター上に映し出されたデジタル画像はどのように物として考えればよいのであろうか。プリントアウトされたデジタル画像においても、そこには被写体との関係をどこまで戻して解釈すれば良いのか考えてしまう。データを物としてどのように考えれば良いのであろうか。それは数値なのか、電荷なのか。いくらでも忠実に再生、複写、保存のきくデータとは「物体」なのだろうか。だとしてもどのような「物体」なのだろうか。実在しているのだから「物体」なのだろう。


2008年11月12日
デジタルカメラという道具

  今年に入って自分が幼少期を過ごした北海道苫小牧市東部の勇払原野を集中的に撮影している。メインはHASSELで白黒の撮影であるが、最近、デジタル一眼の35mmフルサイズでの撮影を併用している。アナログ一眼で撮影していた時のような物理的、精神的体感をデジタルで感ずるにはもう少し時間を要しそうである。今のところ私にとってデジタルは物体的感触がアナログに比べて非常に希薄なままである。仕事として使うにはデジタルが圧倒的に有利であろうが、作品作りとして使う場合にはデジタルである必要性というか、単に便利であるということ以外の理由や結果が私にまだついてこないのである。今しばらくはデジタルが手に馴染んでくるまで使いこなしていこうと思っている。

 写真作品の制作という現場において、デジタル一眼を使っていて強く感ずることは「道具」ということである。写真の撮影、制作においては道具であるカメラが大きな要素を占めており、これまで私は35mm判でF-1を30年間、ブローニー判でHASSELを同じく30年間使い続けている。その間、他のカメラを使う機会は度々あったのであるが、結局他のカメラが馴染むことはなかったのである。今の私にとっては、新しい「デジタルカメラという道具」が体に馴染んでこないのである。出来上がる作品のイメージが眼を伝って感ずることが出来ないのである。

 但し、仕事として使う場合には私自身も迷わずデジタルカメラを使うであろうし、その場合には道具としての違和感を感ずることもないのである。
 作品を制作する場合にはそんなこと等深く考えないのであるが、結局、悪戦苦闘しているのである。今の自分にとってデジタル写真の世界は先の見えない楽しく、苦戦を強いられる世界であろう。


2008年07月25日
苫美展

 第83回苫美展(苫小牧美術協会展・苫小牧市アイビープラザにて)を観た後、喫茶プロムナード(苫小牧市表町5丁目)で佐藤静子・小品展を観た。長年東京・銀座などの画廊巡りをしてきた私だが、苫小牧へ移住して早4年、苫小牧にも美術作家や愛好家がいることをようやく認識させられた思いである。東京の美術に比べてどうかという問題は、当事者である美術自体の置かれている環境が違うのであるからここでは重視すべきではないと思う。苫美展での作品群はどれも力作であり、一作一作に対する作者の真剣な眼差しを感じることができた。喫茶プロムナードは小さな画廊喫茶であるが、落ち着いた好い店であり、展示されていた佐藤静子の作品群もしっかりしたものであった。そういった意味では現代美術の溢れる東京に身を浸からせて観る思いとは一線を画すると思うし、私自身そのために4年という時間を要したのだと思う。それは作品を作り続ける私自身の大きな問題でもある。

 美術作品を作り続ける作家たちにとって、発表の場をこの苫小牧市で持つことは重要であり有意義であると思う。そういった意味で苫美の運営委員や喫茶プロムナードのオーナーに今後もがんばり続けていただきたい。

 ※作品は2点とも第83回苫美展の出品作から
 上・馬場静子「初夏」
 下・浅野千津子「うど」


2008年06月08日
レジ袋の有料化

 2008年6月より北海道苫小牧市では、ほとんどのスーパーマーケットでレジ袋の有料化が始まった。それ以前にはマイバッグを実践している人が極めて少数派であったのに、レジ袋有料化の実施後はレジ袋の利用者が激減、我が家の隣の爺さん婆さんまでもがマイバッグを用意し始めたのには正直驚いた。我が家が所沢市から苫小牧市に転居した4年前、北海道の環境意識に対するあまりの低さに驚いたものだが変われば変わるものである。20年以上も前からマイバッグを実践してきた私としては複雑な思いである。

 ここ数日、NHK(日本放送協会)の番組は徹底して環境問題を取り上げている。ほとんどテレビを見ない我が家にとって、その内容を評価することは出来ないのだが、時代は確実に「急速な環境破滅進行」と「温暖化対策の実施」に突入してきている。日本は高齢者時代に突入し、環境破壊を行ってきた大人たちの代償を今の子供たちが追っていくこととなる。

 私が生きている間に世界は大きく変化するであろう。大量の水を使用し、大量の廃液を出す銀塩写真の自家処理について考えなければならない。数日前、白黒56mm×56mm(ブローニー)サイズネガから42cm×42cmプリントに大伸ばししてみたがアナログ銀塩写真の圧倒的な魅力には、やはり凄いものがある。デジタルとアナログを使い分け、私自身のデジタル写真に対する考えを大きく変更する必要性が生じてきている。
 時代が変わり、文化や美術の位置づけも変わるかもしれない。写真の必要性と位置付けはどう変わっていくのであろうか。


2008年02月21日
全盲の写真家

 2月15日、NHK札幌放送局のドキュメントで全盲の写真家を見た。

 北海道函館市在住の大平啓朗(28歳)は4年前に全盲となったアマチュア写真家。視覚以外の全感覚を駆使して感性溢れる写真を撮影している。積極的に人と触れることにより、その場の環境情報を得るとともに相手の心に触れていくのである。被写体を大切にする姿勢と自分への挑戦が写真から溢れ出しているようであった。そこには写真を撮るという行為の原点があるように思う。
 ただ分からないのは撮影した写真の選定、編集作業等はどうするのだろうか。作品となる写真自体を見ることが出来ないのだから不可解である。他人の介入があるのだろうか。

 試しに私も目をつぶって愛犬の足音を頼りに撮影してみた(左の写真)。足音を追っていただけに実際、足元が中心となった構図となってしまった。意識して撮影した場合とは違った、普段の愛犬の表情がそこには写っていた。